頼朝、湛増の進物を拒否


鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』
文治3年9月  1187年 湛増58歳

20日戊午、熊野別当法印湛増の使者、永禅が関東に参着。法印を叙されて後、子細を言上せず、恐れ思っているとのことだ。この言上のついでに経巻を相添え、綾30端を献じる。これははなはだ(※源頼朝の)御心に背いたということだ。

(※源頼朝が)仰せになるには「神社・仏寺において荘園を寄進することはみな仏神に奉るところである。別当・神主等の恩顧を全く宛てにしていない。そのようなものは件の輩に施し与えるのが、心の中の志すところである。それなのに何事に酬いるがために反対に進物に及ぶのか。少しも受け取るわけにはいかない。そこで使者を返し下された」ということだ。

湛増が贈った進物を受け取らずに使者を追い返した頼朝。
これは湛増と義経の関係を疑ってのことのようです。
この出来事の直前に、義経をかくまっていた奥州平泉の藤原秀衡が鎌倉幕府との戦いの準備を進めているとの情報が頼朝のもとに入っていました。

義経に味方するならば討つという意思表示だったのかも。